事例紹介

4、ニセの相談ー真意はエッチな話をしたい

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有料の相談では例がないのですが、無料の電話相談の場合時々あるのが、ニセの相談です。相談してくる方はたいてい男性で、エッチな話をしたいのかという印象を受けます。いかにも性的な悩みを抱いているふうな感じで、女性の相談員にエッチな単語を言わせてそれを聞きたいのかとも思われます。

こういう方は、男性の相談員が電話に出るとすぐに切ります。相談を受けている団体によっては、こうしたニセの相談も電話をかけてくる人にもしも病理があるのなら、聞いてあげてカタルシスを得ることにより社会防衛に役立つかもしれないという理由から、ニセの電話とわかっても切らないようにという指導がなされている場合もあります。

ところで相談員はニセの相談がすぐにわかるのです。不思議なことにどれほどニセの相談者が技量のかぎりをつくしてもわかってしまうのです。理由はエッチな話をするからではありません。

ニセの相談の一番の特徴は背景の情報量が不足しているということです。一般的に相談をする時は、テーマの他に、テーマを説明するための家族構成や職業、その他こまごまとした背景や情報がザアーッと背後を流れていくのです。

相談者は、知らず知らずのうちに背景を語っているし、電話を受けるがわは、そうした情報に何かしらのヒントのあることが多いので、聞きもらすまいとして耳を傾けています。つまり二セの相談電話は背景不足に陥っているのです。

頭で考えた相談は、テーマに関係のない細部の情報まですべてを考えつくせないのでしょうね。そのせいか話の構成が何かしら平板で無機的な感じがします。無機的といえば、感情がこもっていないのも、もうひとつの特徴です。真意は、エッチな話をしたいというのであれば、感情を隠しておかなければならないのでしょうね。

真実の相談者の方たちの抑制した雰囲気の中にもあふれ出てくる、困っているという感じや真率な雰囲気、知ってほしいという感情やせっぱ詰まった話し方など、もろもろのこうした雰囲気が欠けているのが特徴です。これも無機的な印象をもたらす要因のひとつなのでしょうか。

ニセの相談をしている方は、相談員が電話を切らない場合、自分のうそが成功していると思わないほうがよいと思います。ほとんどの相談員は「ああ、うそを言っているなあ」と感じつつ、電話が終わるのを待っているのです。

ところがです。長いニセ電話が2~3年も続いてからでしょうか、ある日とつぜん本題に入ってくる方がいます。このような入り方で開始される相談の内容はたいてい深刻なものです。近親姦とか。ニセ電話が奇怪な前触れだったということになります。高校生ぐらいになってからそうした関係に入ると子供のがわの被害者意識が乏しいことがありますから、はっきりと「親からの虐待です」と告げるようにしています。

暴力的でない場合でも親の誘導でおきることが多いし、たとえ子供のほうから誘った場合でも親は子供に同世代の異性との健康な恋愛や結婚のチャンスを阻害すべきではありません。もしも子供が誘ったのであれば親は健康な親子の情愛を育(はぐく)んでこなかったといえるでしょう。親子の愛と異性の愛、これは本来健康な親子関係のなかで子供が育てられると混同は起きにくいのですが、不健康な親子の愛情関係のなかで育つとえてして心と脳の配線ミスが起こりやすくなるようです。

これはあくまでも仮説なのですが、異性との愛と親子の愛情をとり違えてしまうのは、ひょっとしたら愛情の総量が足りないことからくるのかもしれません。親にしても、子にしてもです。

かなり以前に聞いたことなので現在でも同じ状態なのかわかりませんが、モンゴルでは青物不足が常態化しているので、野菜を意味する言葉はたったの一種類しかないと聞いたことがあります。たとえばただ野菜という言葉があるきりだそうです。たとえそれがトマトにしてもキャベツにしてもたった一言であらわすボキャブラリーしかないのだそうです。

それと同じように、愛情の絶対量が足りない環境で育つと言葉の分化とそれにとうぜんともなうはずの概念の分化が起こらないのかもしれません。親子の愛、異性との愛、友情などといったそれぞれにふさわしい愛の形というものがピンとこないのではという仮説です。やや唐突な仮説ではあることを承知のうえなのですが…。

たとえばモンゴルであったなら、ひとたび胃の腑(ふ)におさめたとなるとそれがゴボウであってもレタスであっても、滋養分を余(あま)さず摂取することでしょうね。ムダになる部分はひとつもないでしょう。ところが愛のゆがんだ混同はけっこうな毒になるのです。

このようなことを申し上げるのも、何かの理由で愛情が足りないか、愛情をかけることのできないお母さんのもとで育った息子さんが母親に女を感じるという告白をしばしば聞くからなのです。

話は違いますが一般的にいって乳幼児期に必要な保護とケアと愛が不足して育った方たちは、友人にも愛を求めます。友情とは、共に楽しむなどという体験を出発点としてつちかわれていく情愛なのだと思うのですが、友人にも聞いてほしいとか、わかってほしいとか本来ならカウンセラーに求めるべきようなものを求めてしまいがちな傾向にあるといえるでしょう。

乳幼児期に必要な保護とケアと愛が不足して育った人のなかには、他人にそうしたものを求める力を飛びぬけて発達させて育った方がいます。そういう人は、愛が欲しいなどとけっしておっしゃいません。しかし他人にはすこぶる魅力的な人に映じるのです。

人を楽しませる力があるし、トークも楽しいし、人なつこいしで。おそらく本来強くて明るい性格の持ち主がなんらかの傷つき体験を経て、生きてきたのでしょうね。一見なんら問題がないと思えるのですが、見えないところに病理が隠れていたり、あるいはご本人の胸のうちはたいそう苦しかったりなどということもあります。しかし、こういう方は得(え)てして、自分の傷つき性にたいして否認が強く、カウンセリングにたどりつくことはないようです。

 

 

 

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