衝撃的だった神戸連続児童殺傷事件が起きてからすでに十年以上の時が経っています。犯人が逮捕されたあの夜、警察発表は「犯人は15歳の少年」というものでした。事件についてはその驚きとともに鮮明におぼえておられる方もいることでしょう。
あれ以来、神戸連続児童殺傷事件は不可解な少年犯罪の典型として人々の脳裏にきざみつけられました。むしろ物盗り、単純に性的なものなどが原因であればわかりやすいのですが、性的サディズムという原因とはへだたって迂回して表現された異常性のために、日本中が困惑したといってよいのかもしれません。
さて、第二の犯行声明文の中に「透明な存在であり続けるボク」という部分があります。有名なフレーズです。学校教育がボクを透明な存在にしたとしているというものです。おそらく少年は認知されたかっでしょう。その起源はおそらく遠い昔、母親から承認の欲求を満たされないで育ったためにつねに承認の欲求が意識されていたものと思われます。
気になるのは、少年の母親が祖母から厳しくしつけられたと、実母である祖母に向かって抗議している部分です。この祖母は、少年Aの心のより所になっていたらしく、この祖母の死も犯行へのひきがねのひとつになったと解釈されています。
祖母も実母には厳しかったと実母は著書の中で訴えています。(『「少年A」この子を生んで…悔恨の手記』より)しかしながら祖母という立場になってみると、娘の孫への接し方が厳しすぎると気になっていた様子。
世代をへだてるとやさしい祖母に変わっている、じつはこれはよくあることなのです。自分の子供へは厳しい親だったが、孫にはやさしいおばあさんになっているという状況です。世代連鎖についてクライアントさんに話し、おそらくはお母さんもというような話題になると、あれほどやさしいおばあさんが、子育ての現役時代に母に厳しすぎたなどということがあるわけがないとおっしゃることがあります。
母親にとって子供は分身みたいなところがあります。子供を受容することのできないお母さんというのは、そもそも自分を受容できていないのです。それで孫の世代になると少し関係性が遠のくので、安心してかわいいと思えるのでしょう。親子というダイレクトな関係になると自分の存在の不安をかきたてられるお母さんがいるようです。
若いころの激しさがぬぐったように抜け落ちて人のよい祖母に様変わりしているということはありがちです。そうかと思うと、若いころと少しも変わらず家族にとっての困ったちゃんのままという祖父母もけっこういて、いろいろなケースがあります。
世代連鎖はすることもあるし、しないこともあります。むしろしないことのほうが多く、その確率は30パーセントほどと言われています。それを3分の1と考えてみます。3分の1×3分の1は9分の1ですから、仮りに世代連鎖的な環境にあったとしても、孫世代にはほぼ1割になっており、世代連鎖はしないことのほうが多いのです。特に早い段階での気づきと吐き出しがあればストップできる確率はより高くなっていきます。心理療法のひとつにジェノグラム(家族図)というものがあり、これも気づきをうながすひとつの方法です。